脊髄損傷への再生治療、受傷の時期に応じて総合的に

岡野 栄之 氏 慶應義塾大学医学部 生理学教室 教授

(インタビュー実施日:2014年6月9日)

 脊髄(せきずい)損傷の新しい治療薬の臨床試験(治験)をこの夏、整形外科のグループなどとともに開始しました。遺伝子組み換え技術でつくったHGF(肝細胞増殖因子)というたんぱく質を、脊髄損傷された直後の患者さんに注入し、安全性と有効性を確認していくフェーズⅠ・Ⅱaトライアルです。
(脊髄損傷HGF治験 問い合わせセンター:http://www.kringle-pharma.com/scichiken.html
おおむね受傷してから72時間以内の方で、10人から20人程度を想定していますが、ポンプを使って患者さんの髄腔(ずいくう)という場所に数週間かけて持続的に入れていきます。急性期の患者さんに対する治験を1つの施設で行うのは難しいので、国内の複数の医療機関と合同で実施します。慶應大病院自体は実施施設ではありません。

 脊髄損傷される方は年間5000人ほどと推定されています。急性期には、受傷した場所に常に強い炎症反応が起きるので、まず炎症を食い止めることが重要になります。HGFには炎症を抑え、細胞を保護する作用が知られています。また、炎症を拡大させる方向に働くグルタミン酸を、神経細胞に栄養を与えるグリア細胞の中に取り込ませて無毒にする作用がありますので、受傷の初期に起こる細胞への障害を食い止めてくれるのではないかと期待しています。また、HGFは細胞の再生を誘導する能力もあると言われていて、その意味では今回の試みは再生医療でもあると思っています。これまでのサルの実験では、運動機能の障害を抑える効果を認めています。

図:脊髄損傷に対する時期特異的な再生医療
図:脊髄損傷に対する時期特異的な再生医療
(岡野教授提供)

 iPS細胞から神経幹細胞をつくって移植する脊髄損傷の臨床研究は、受傷から1カ月くらいの「亜急性期」の患者さんを対象に計画しています。いま、できた神経幹細胞がきちんと分化しているか、幹細胞としての機能をもっているか、がん化の恐れはないかといった点を細かく検証していて、臨床研究を始められるのは4年ほど先になるでしょう。移植に使う細胞の数は500万から1000万個を見込んでいて、理化学研究所が取り組んでいる網膜色素上皮組織の細胞数より100から200倍ほども多い。安全性をどうやって確かめるのか、その手段も開発していく必要があります。

 私たちがさらに考えているのは、国内に10万人とも20万人ともいわれる、受傷から長期間がたった「慢性期」の方への治療です。慢性期になると損傷した場所がかさぶたのように硬くなって、神経軸索の再生をじゃまする物質がたまってしまいます。これだと、神経幹細胞を移植しただけではなかなか機能は再生しません。そこで、製薬会社と共同でこうしたじゃまする物質の働きを阻害する薬を開発しました。これを神経幹細胞の移植と併用し、さらにリハビリと組み合わせることで、何とか効果を上げられないかと取り組んでいます。マウスの実験では科学的に意味のある運動機能の回復がみられていて、私たちは7年後、こうした慢性期の方たちへの臨床研究の開始を目指しています。

 iPS細胞からつくった神経幹細胞の移植は、動物実験では脳梗塞(こうそく)の後遺症にも効果が見られることがわかっています。ぜひこれも臨床研究につなげたいと準備を始めています。脳梗塞の後遺症に悩む患者さんは国内に130万人いるといわれていますので、治療方法として確立すればインパクトは大きいでしょう。臨床研究は比較的少数の患者さんに対して実施しますが、実用化となれば薬事法の治験を経て、たくさんの患者さんに細胞などを提供しなければなりません。iPS細胞からの神経幹細胞の作製は学内のセルプロセシングセンターで行いますが、多くの患者さんを対象とするような一般的な治療にはとても足りません。現在、製薬会社に技術移転をして、細胞の大量生産などができるようにする準備もしています。

 昨年、薬事法が改正されました。これによって、再生医療にかかわる製品はある程度の安全性と有効性が認められれば、暫定的に承認して市販後に検証を続けることが可能になりました。同時に成立した再生医療安全性確保法とあわせて、非常に大きな動きです。私たちとしては臨床研究から速やかに薬事法ベースの治験へと進み、安全性をしっかり確保しながら実用化をめざしていきたいと思います。

 再生医療に対する一般の方の期待は非常に大きくて、よくお手紙などをいただきますが、あすにでも治療を受けられるのではないか、と思われる方が多いのですね。でも、今回始めるHGFによる治験も、まずはごく少数の方で安全性と有効性を確かめるのが主目的です。ふつうの病院でだれでも治療が受けられるまでには、まだいろいろな手順を踏んでいく必要があることもご理解いただけたらと思います。

 再生医療をめぐる新しい法律が施行され、iPS細胞をもとにした組織の世界初の移植が予定されるなど、今年は「再生医療元年」とも呼ばれています。そんな年に、STAP細胞という新しい幹細胞をめぐって大きな問題が起きてしまったことは非常に残念です。我々再生医療の研究者としてはこれでひるんでしまうことなく、教訓をくみ取って研究を前に進めていかないといけません。例えば、異なる研究施設の間で細胞などを受け渡しするような場合に、その細胞が本物である、真性であることを客観的に確認できるような仕組みをつくる、といったことが必要です。

聞き手:朝日新聞記者/慶應義塾大学共同研究員 田村 建二

岡野 栄之 氏
慶應義塾大学医学部 生理学教室 教授
詳しいプロフィールはこちらをご覧ください
このページのTOP