iPS細胞からインスリン細胞、基礎研究重ねて臨床へ
粂 昭苑 氏 東京工業大学 大学院生命情報研究科 教授
(インタビュー実施日:2015年5月15日)
iPS細胞をもとに、膵臓にあるベータ(β)細胞をつくる研究を続けています。
ベータ細胞は「インスリン細胞」などと呼ばれることもあって、食事などを通じて血糖値が上昇したことをキャッチし、インスリンを分泌する機能があります。インスリンの働きで、血液中の糖は体の細胞に取り込まれ血糖値が下がります。
生命の出発点となる受精卵は、分裂していくにつれて3種類の細胞の層にわかれます。膵臓はこのうちの一つ「内胚葉」からできていきます。内胚葉からは膵臓のほか、肺や肝臓、胃や腸などができます。
膵臓という臓器の細胞には大きく三つの機能があって、ベータ細胞は血液中にホルモンを出す「内分泌」の機能を担当します。内分泌を担う細胞はベータ細胞のほか、血糖値を上げるホルモンを出すアルファ(α)細胞など主に4種類の細胞に分かれていきます。こうした様々な細胞へと、一つの受精卵から分化、つまり枝分かれしていくのです。
図:膵臓の場所
受精卵から膵臓の細胞への枝分かれがどのようにして進んでいくのか。それを解明したくて、約16年前に米国へ留学したのを機に、膵臓の研究に着手しました。それまでは発生生物学者として、主にカエルの研究をしていました。
インスリンがまったく出ない病気が1型糖尿病で、患者さんは血糖値を測りながら、1日に何度もインスリンを自身に注射しなければなりません。生活習慣や体質がかかわっているといわれる2型糖尿病でも、インスリンをつくる力が足りなかったり、失われてしまったりするケースが少なくありません。糖尿病の患者は世界中にたくさんいます。iPS細胞などをもとにベータ細胞をつくって患者に移植することができれば、インスリンをつくる能力を補うことができ、有力な治療手段になります。この分野は競争が激しく、世界中のグループが研究に取り組んでいます。
私たちは最近、培養を補助する細胞や成長増殖因子、血清に動物由来のものを使わずに、iPS細胞からインスリン分泌機能をもつ細胞をつくることに成功しました。研究の世界では、細胞を扱うのにこうした動物由来の細胞などを使うのはごくふつうのことで、市販の培養液などにも一般的に動物由来の成分が入っています。でも、ヒトの治療に使うことを考えた場合、動物由来のものは避けたほうがいいです。移植したとき、動物由来の細胞などに対する拒絶反応や、未知の感染症などを引き起こすおそれがあるためです。
図:膵臓の発生分化と再生(粂教授の資料をもとに作成)
実績のある動物由来の素材を使わないと、目的の細胞をつくるための効率が悪かったり、できた細胞の品質が劣っていたりする心配がありました。iPS細胞からベータ細胞まで分化させるには、大きく五つのステップがあって、ヒト由来のものだけでうまくつくれるか、一つ一つの条件を細かく検討していきました。海外から留学していた大学院生と、私が以前に在籍していた熊本大学の研究グループが取り組み、約5年間かけて、ベータ細胞と同様にインスリン分泌機能をもつ細胞をつくることができました。たんぱく質や化学物質など、約20種類の因子を作用させて、ベータ細胞の機能をもつ細胞へと育てていきます。iPS細胞からこの細胞に分化するまで、28日間ほどかかります。
動物由来のものを使わずに分化させる手法を開発したことで、臨床応用に向けたハードルを一つ越えることができたと思っています。ただ、実際の治療をめざすには、まだまだ課題があります。
まず、目的の細胞をつくることはできましたが、インスリンの分泌量といった機能はまださほど高いわけではありません。より良い機能を得るためには、培養法などをもっと進化させる必要があります。インスリン分泌以外の働きも含めて、もっともっと本物のベータ細胞に近づけていきたい。
臨床応用を想定した場合、それぞれの患者からiPS細胞をつくってベータ細胞に分化させて移植する、という手法が考えられます。でも、iPS細胞はもとの細胞のタイプによって育ち方に大きなばらつきがあります。海外では、品質の安定したES細胞をもとにして分化させ、移植に使おうという取り組みも盛んです。「どんな細胞を出発点にするか」も検討していかないといけません。
さらに、糖尿病の治療に応用するには大量のインスリン分泌細胞をつくらなければなりません。マウスの実験では、1回の移植に数百万個の細胞を移植しています。ヒトへの治療では、この2千~3千倍は必要だと考えられています。これだけの細胞を確保するのは容易ではありません。iPS細胞自体を大量に増やす技術も重要ですが、そこから効率よくベータ細胞に分化させることができなければ仕方がありません。
いま、1型糖尿病の治療では、亡くなった方などの膵臓からベータ細胞を取り出して移植する治療が試みられています。これによっていったんインスリン注射が不要になりますが、数年するとその効果がなくなってしまうといわれています。iPS細胞をもとにした治療においても、複数回の移植を念頭におかないといけません。日常的な医療として実現するにはコストがかかりすぎてもいけないし、安全性の確保ももちろん欠かせません。まだまだ克服すべき課題がたくさんあります。
iPS細胞をもとにした糖尿病治療がいつ実現するか。患者さんたちの期待は強く感じていますが、数年以内にというのは難しいと思っています。2020年代の終わりまでには何とか、というところでしょうか。
成果を急ぐあまり、「機能が不十分な細胞を移植したが効果がなかった」となっては仕方がありません。やはり、実用化を目指すからこそ、基礎的な研究にじっくり取り組んでいくべきだと考えています。人間や動物の体で自然に分化していく細胞と、人工的に育てた細胞とで、発生の過程でどこが共通していて、どこが違うのか。分子のレベルでしっかり調べ、より自然の細胞に近づくように改善していく。一歩一歩、進めていくのがいいんじゃないかと思いますね。
聞き手:朝日新聞記者/慶應義塾大学共同研究員 田村 建二
東京大学薬学部卒、大阪大学大学院理学研究科博士課程修了。1999年から2002年まで米国ハーバード大学に留学し、ES細胞から膵臓への発生分化過程を試験管内で再構築する研究に従事。2002年から熊本大学発生医学研究所教授、2014年12月より現職。